いい日もわるい日も、幸せな一日だ

ワンランク上のおっさんをめざす、アラサーコピーライターの日記

新歓まざり隊!

4月。

かつてそれは、新しい人と出会い、新しいコトがおこり、新しい生活が始まる月として認識されていた。

しかし、大学を出てからは年を重ねるごとに4月の輪郭はぼやけ、

4月1日になっても、くだらない企業のエイプリルフール施策を横目にやるだけで、

とくにドキドキもワクワクもしなくなっていた。

 

それでも、寒さを乗り越えあたたかい季節になると、前向きになり、何かチャレンジしたくなるのが、人間の性。

変質者が増えるのもこの季節ではあるが……。

26だか27歳の時に、僕は、この季節になにか面白いことがしたいと

社会人1年目の後輩と二人で週末の渋谷に繰り出した。

 

渋谷駅のカオスの中には、

段ボールで作ったプラカードを持ったグループがちらほら。

 

新歓コンパだ。

 

後輩「先輩、まざってみましょうよ」

僕「まざるたって、おれ26だよ」

後輩「いや大丈夫すよ、先輩、童顔だし」

僕「そうか、じゃあやってみよう!」

 

という短いやりとりの後、

適当に大学のサークルを見つけて

グループの中に紛れ込んだ。

 

僕「これって、突然来ても参加できるんですかねー?」

新入生「大丈夫じゃないですか、僕も参加するの昨日決めたし」

僕「じゃあ付いていけばいいな」

後輩「ですね」

 

どこの大学で、なんのサークルかもわからないが、

とりあえず我々はグループの最後尾に位置取り、移動を開始した。

東急本店の方まで歩かされ、着いたのは、居酒屋の定番!大学生の味方!

金の蔵!キンクラ!

50人くらいは入るであろう大広間に案内され、新入生は固まって座らされた。

有無を言わさずビールがピッチャーでどんどん運ばれてくる。

 

乾杯の音頭を、部長らしき人がとる。

 

部長「えー、われわれ東大のバドミントンサークル○○に興味を持ってくれてありが…」

僕&後輩「……」「東大!!!!?」

 

断っておくが、僕も後輩も東大はもとより早慶上智すら出ていない。

ふつうの偏差値の私立大出身である。

「東大」と聞いた瞬間、この場をどう乗り切ればいいのか、

そればかりを考えるはめに。

「東大」というフレーズを聞いた瞬間、

この場を楽しもうなんて余裕は葬りさられたのだ。

とにかく「26のただの社会人」であることはバレてはいけない!

気を紛らわすために、手元にあるビールをがぶがぶと飲み干す。

飲みっぷりいいねと先輩に言われながら(実際は、後輩なんだけど)。

 

 

ただ不幸中の幸いだったのは、その当時僕は、

広告の仕事で某通信教育のDM(ダイレクトメール)の制作を

がっつりやっていたため、東大の入試事情や、科類に関しての情報なんかは

持ち合わせていた。

だから、向いに座っているいかにも勉強しかしてこなかったような

おたく気質な男子大学生が、受験の話を持ち出しても

なんとかかわすことができたのだ。

それはまさに迫真の演技といっていいと思う。

自分で自分を褒めてあげたい。

 

 

2時間におよびその飲み会をなんとかクリアし、

「次行くひとー!」の呼びかけには答えず、

僕と後輩はそのグループを後にした。

後輩はとても満喫していたようだった。

隣りに座った女の子とアドレスも交換したというではないか。

僕の収穫はといえば、大学一年生でも通じる顔立ちであることが証明されたくらいだ。

 

 

26の年から、5年が経った。

もうさすがに大学一年生のフリは無理になってしまった。

でも、アホみたいなことにチャレンジしちゃう、

そんなノリは復活させたいなと思うのでした。

 

ちょっとしたストレスを抱えながら、今日も

電車のドアがしまって発車するのかと思ったら

「一旦ドア開きまーす」というアナウンスがあり、

再度ドアが開くとき。

 

 

会社から駅までの道のりで、やたらと信号にひっかかり、

ふだんならギリギリで始業時間に間に合うはずなのに、

2,3分遅刻してしまったとき。

 

 

コンビニのコーヒーメーカーの水が不足していて、

店員さんに補充してほしいのに、

店員さんがレジ対応に追われていて、

中々こちらに気づいてくれないとき。

 

 

トイレのフタが自動で上がるタイプだが、

便座までは自動で上がらず、結局、男である僕は、

小便をするときに、手動で便座を上げるはめになるとき。

 

 

ひとは(自分は?)、小さなことでイライラする。

イライラが積もり積もって寿命が縮まったり、

病気になりやすかったりするのだろうか。

そんな心配を抱えながら、今日も小さなことにイライラして、

なんでもない一日を送っていく。

夢は書店員と言った女の子

 

僕は広告業界に身を投じている。今、働き方が問題になっている業界だ。

僕はグラフィック(紙)の畑だけど、ときたま電波の仕事もやることがある。

そんなときは、映像制作会社の人と組んでやるわけだけど、

この「映像」という畑が、紙とは比べ物にならないほど忙しい。

徹夜は当たり前だし、家に一週間帰れないこともざらにある。

よくTVで、ADさんがデスクの椅子を並べて寝ている姿が流れるが

(それを流すのもどうかと思うが)

その姿をイメージしてもらえればいい。

 

 

僕は、その映像制作会社の同年代の二人と仲がいい。

ひとりは一つ下の男の子。もう一人は5つ下の25歳の女の子。

その二人と新年会と称してこの間、飲みにいった。

 

会では、お互いのこれからの夢を語りあった。

僕は、30も過ぎて人生に迷っていた。

目指すべき目標も夢もあるのだが、なにか「これだ!」という決定打に

欠けていて、具体的なアクションをおこせないでいた。

 

そんなとき、5つ下の女の子が、自分の夢について語り始めた。

「わたしは、結婚をして子どもが大きくなったら書店員として

パートをすると決めているんです」。

夢でも目標でもなく、それは決定事項だった。

その迷いのない口ぶりと、彼女の優しくも意思を感じる視線に

僕はなんだか自分のことが恥ずかしくなってしまったと同時に、

彼女の夢がとても羨ましくもあった。

 

売れたい、認められたい、評価されたいという人間ばかりの

この業界において、その子の素朴で優しい夢は、大げさでなく輝いていた。

「学生時代アルバイトしていた本屋の空気が好きだった」と彼女は言った。

 

ありのままの自分を認めてあげて、幸せを感じられればそれでいい。

夢に大きいも小さいもないし、

夢に人の意思や視線が入る余地なんてないはずなんだ。

 

その子の夢を聞いて、もっとピュアに夢と向き合って動きだそうと決めた。

誰がなんと言おうと、自分が喜ぶことをする。それだけだ。

 

 

 

人見知りなんて、嘘だ

 

「自分、人見知りなんで」とか言うひとがたまにいる。

最近では、コミュ障なんていう便利な言葉が一般的になり、

その言葉に逃げてるだけではないかという人が多い気がする。

もちろんこの場合、精神疾患などで苦しんでいる人は例外なんだけど。

 

 

人は誰だって、人見知りだと思う。

 

 

初めて会う人には、年齢性別問わず緊張するものだし、

会話の糸口が見つからず、盛り上がりに欠けることだってある。

 

 

それでも、お互いが勇気と気力を振り絞って

会話を成立させようと努力することで、

どこかの段階で意気投合する瞬間が生まれるのではないか。

それが大人というものだし、

それがコミュニケーション力ではないか。

渋谷に向かう母と娘。

 

渋谷に向かう電車の中。日差しは出ているけれど、

風が強くて体の芯から冷える週末の午後。

途中の駅から乗車してきて隣に座ったのは、40代前半と見受けられる母と、中

学生くらいの女の子。娘の方は、都会のいまどきの女の子らしく、

キャメルのショートコートにスカート。ロングブーツの出で立ち。

足の長い女の子。身体つきだけ見れば、それはもう立派な大人の女性なのだけれど、

顔つきは幼さをまだまだ残している。

 

 

母と子のやり取りから見受けるに中学生の女の子はお母さんが大好きみたいだ。

いっぱいいっぱい話しかけている。でも、母の反応は今ひとつ。

「そうだね」とつぶやくか、うなずくぐらいの反応。

機嫌が悪いのかな。それとも疲れているのだろうか。

母の反応がいまいちなせいか、

中学生の女の子はショルダーバックから文庫本を取り出す。

しばし、二人に沈黙が流れ始めた。

 


あとひと駅で渋谷というところで、「はあ」。という母の深い溜息。

「え!?」と、びっくりしたように、中学生の女の子が母を凝視する。

「どうしたの?」という投げかけにも母親は何も答えない。

うなだれる女の子。肩まである真っ黒い髪の毛が顔を覆い隠す。

 


「渋谷、渋谷」という車内アナウンス。

母は「いくわよ」という声もなく先に立ち上がる。

そして、後を追うように中学生の女の子も電車を降りていった。

 

 

年始は嫌いで、年末は大好きだ。

 

 

新年になると、SNSやブログ、そして新年会の会場なんかでは、

今年の目標やテーマなんか掲げられまくる。

 

そんな鼻息荒くなる新年のムードが、苦手だ。

 

もっと、そっと、静かに新年をスタートさせたい。

普段通りでいいじゃないと思う。

 

 

一方で、

そのたった数日前の「年末」のムードは、大好きだ。

新年に掲げた目標の半分もクリアできなかったけど、

まあまあいいじゃないの。とにかくみんなよく頑張ったよ、

なんて慰め、健闘を讃え合うかんじ。

そして、年末は余計なことは忘れて飲みまくり、寝まくる冬休み。

無理矢理に終わり良ければすべて良しにする感じ。

じつに素晴らしい。人間らしい。

 

 

年始と年末では、人々のテンションはこうも違うものかと思う。

 

 

 

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でも私も実際、年始の高揚感が苦手なんて言っておきながら、

やっぱり高い目標は立てるし、初詣に行って願掛けもする。

言い換えれば自分も新年を意識しているのだ。

 

まあ、どれだけ目標が達成できるかわからないし、

いまの段階では予期できないことも起こるかもしれない。

ただ、年末に実家に帰省したときに、

家族がみんな健康で集まれるのが

なによりだよなーなんて、20代のときには思いもしなかったような

平々凡々なことをすこーしだけ思うのでした。

可能性を捨てると、人は前に進める

 

人は可能性を取っておきたい生き物だと思う。

 

例えば、小説が好きで読書量も豊富な人が、

芸人の又吉みたいに、自分も小説を書いて、賞を受賞して、

文壇デビューできる日が、いつか来ると信じているように。

 

でもその“いつか”は、いつ訪れるのだろうか。

まず、小説を書き上げなければその“いつか”は一生訪れないのだが、

それすらもしない人が多いという事実。

 

だから、頑張って小説をひとつ書き上げることに大きな意味があるのだと思う。

やり遂げなければ、見えない景色というのがある。

原稿用紙200枚近くを書いて、それが結果的に拙い作品になっても、

「ああ自分はこの程度のレベルなんだ」ということを

認識し、自分を納得させてあげられる。

そこで諦めてもいいし、

いやいや次こそはもっと良い作品を書こう!とモチベーションが高まってもいい。

 

やり遂げることで、次の選択肢が初めて見えてくるのだ。

つまり前に進める。

 

これが、ずーっとやらないまま、

俺はいい小説が書けるんだと思っているほど、

たちの悪いことはない。

 

成長しないどころか、“いつか”という可能性にしがみついて、

人の批判ばかりが上手になってしまう。

 

 

肩の力が抜けるシーズン

 

師走というだけあって12月は仕事で毎年バタバタ。

しかし、仕事に忙殺されている中でも、

実は心に少し余裕がある時期ともいえる。

 

それは、なぜか。

プロ野球が無いから。

厳密に言えば、カープの試合が無いから。

 

 

ペナントレース開催期間の4月〜9月と

CS&日本シリーズのある10月はとにかく

肩に力が入った状態で毎日を過ごさなければならない。

 

平日に試合がある場合は、

アプリやYahoo!の一球速報を追いながら仕事をしなければいけないし、

週末に試合がある場合は、

スポーツチャンネルでTV観戦か、

東京ドーム、神宮球場、浜スタなど都内近郊で開催される試合ならば、

足を運んで観戦しなければならない。

 

それだけではない。

 

深夜のスポーツ番組のザッピングは当たり前だし、

2軍の選手の成績だってチェックしなければならない。

他球団の選手の成績だってチェックしなければならない。

YouTubeカープびいきのハイライト動画もチェックしなければならない。

 

とにかく忙しいのだ。

 

では、なぜこんな忙しいことを7ヵ月もの間、続けるのだろうか。

さんざんしつこく書いている「しなければならない」にヒントがある。

 

そう、「したい」ではなく「しなければならない」という心情がどこか、

働いているのだ。

 

おそらく「したい」という感情だけだったら、

毎日こんなに熱心にカープを追えない気がする。

「しなければならない」という、使命感にも似た感情が、

僕を衝き動かし、カープへの熱い想いに繋がっている。

 

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俺がやらなきゃ誰がやるんだ的な想い!

 

 

だから、野球観戦はとくに面白い。

使命感を持った4万人が集い、声援をおくり、野次を投げ、歓喜する。

球場の熱気というのは「使命感」の集合体なんだと思う。

 

でも、

使命感のある状態で、

一球に一喜一憂する生活を7ヵ月も続けるのは、さすがに疲れるらしい。

今年はとくに、カープはリーグ優勝を果たし、日本シリーズまで進んだ。

惜しくも日本一は逃したものの、10月一杯まで続いた野球漬けの日々は、

こんなに疲れるものなのかと発見があったくらいだ。

 

 

それだから、野球が終わった11月からの生活というのは、

なんだか憑き物がとれたようにカラダが軽くなり、

肩の力も抜ける。

ファン同士も、また来年だね。なんて寂しさを滲ませつつも、

どこかほっとしていたりする。

オフシーズンの選手の契約更改のニュースや、

キャンプ、そしてオープン戦の動向は

心に余裕がある状態でチェックができる。

 

結局、野球を追ってはいるわけだけど、

それは、微笑ましいニュースとして。

そこには「なにやっとんやわれ!」といった野次はない。

 

 

来年こそは覚醒しろよ、堂林!!!!

 

 

 

amazonで思い出すこと

amazonで買い物をするとき、
 
商品をカートに入れてレジへ進んで、
 
登録された住所を選択して、
 
支払いを済ませるという手順を踏むわけだけれど、
 
ぼくには、登録されている住所がいくつかある。
 
たぶん、みなさんもそうではないかと思うのだが。
 
 
今住んでいるマンションの住所だけじゃなくて、
 
上京して12年のうちに住んだ2軒の賃貸マンションと
 
今の会社と前の会社と、それと実家の住所。
 
さらには、前の彼女の自宅の住所なんかも登録されていたりする。
 
amazonで買い物をして住所を選択するページを眺めるたびに、
 
それはほんの一瞬のことだけど、
 
あの街やらあの子の映像がふわっと浮かんでくるのであった。
 
 

そのこと、ちゃんと覚えてます。

 

人から頼み事をされることって多々あると思う。今回は

お金が絡む話ではなく、ちょっとしたこと。一応、コピ

ーライターなんて仕事をしてるもんだから、広告的な相

談などもされるんだけど。

 

 

「今度○○のことでちょっとご相談させてください」っ

てメールや電話が来て、取り込むことが多いから、内心、

ちょっとやっかいだなと思うんだけど、「忙しい」を

理由にして断るのは、なんかスマートじゃないし、

実際、僕も数々のお願いをしていて、

それを快く引き受けてくれる先輩方がいるので、

見習おうと思って、引き受けるわけです。で、いつ具体的

な話が来るのかなーと頭の片隅で待っているわけだけど、

一向に連絡がない。

 

 

まあ、やらなくていいなら、

こっちも楽できるからいいんだけどさ、一度、そうして

頼まれた事って、ずっと頭に残ってて、澱が溜まる気持

ちわるさといというか、軽いストレスになるんだよね。

何よりその人に対して信頼度は下がるわけで。

 

 

相談した相手は、気軽な気持ちでメールしたのかもしれ

ない(気軽に連絡くれることはとてもありがたい)。結

果的に相談しなくても事が解決されたのかもしれない。

そんな話はもうどうでもよくなってしまったのかもしれ

ない。それならそれで、そのむねをしっかりこちらにも

伝えるのが礼儀だと思うのだよね。

偉そうに言っていますが、自分を戒めるためにもこの内

容を今日は書いています。